2022年 年頭所感

Text by 伊藤 雅人



2022年が走り出しました。
この一年走のスタートラインに立つ走者の一人として心に浮かぶことを書き留めてみます。

みっともないので言葉にして吐き出すことはしないのですが「ちょっとキツイ」としか感じられない様な日々を過ごしたのち、そのあれやこれやから自身を解き放つ時間の中に身を置いたとします。例えば借り受けた市民菜園(地味ですが)で畑を耕すことに没入し、ふと手を休めぼんやりとしてしまったようなとき、気づくと辺りから人工的な音はすべて消えていて、ただただ木々の梢を風がわたる幽かなさわめきだけが聴こえる、その刹那、自分が自然の中に溶解してしまったような得も言われぬ感覚に囚われることがあります。その一瞬の中に生命のゆらぎと言えるようなものを感じます。

さて、話は変わって、
AI、DXなどなど、世の中は更に加速度を増してデジタル化し「データ」を信奉するようになっています。ネットワーク広告の領域でもターゲティング広告、ディープ・パケット・インスペクションなど新手の手法が席巻し、デジタル&データが無ければ夜も日も明けない状態と言っては誇張が過ぎるでしょうか。当然ながら我々の広告映像制作業も例外ではなく事前の企画案スコア判定、事後の効果測定などデータに隷属を強いられているかのような状態です。これら急激な変化の中でデータに基づかない生身の人間の感覚や思考、判断は今後一切相手にされなくなるのではないかと、その「信仰」度合の過剰さにいささか唖然とする思いです。

デジタル化されたデータ(以下、D/D)とは刻々と過ぎゆく「過去」の中に固定化された情報です。それらをよすがとしてに未だ見ぬほんのちょっと先の未来を描き出す。そんなふうに我々の仕事もさながら過去の情報の加工業に移行してしまったかのように感じることがあります。そうして産み出された加工品を届け先の皆さんに食して貰いその方々に狙い通りの栄養素を吸収して頂く。人々は加工品を自らギュウギュウと詰め込みお腹がどんどん膨れてゆく、そんなイメージが浮かんできます。

さて、そもそも人間の「発想」も蓄積された過去の記憶を素として何らかの考えや思いを産み出す行為だと言えそうです。であるならばD/D活用作業と何ら違いは無いのではと考えてしまうかも知れません。ところが私には違いは明白なように思えます。人間が記憶を呼び戻すとき、その行為には必ずある種の「生命のゆらぎ」が介在すると考えるからです。そのゆらぎも百人百様かつ一個人の中でも瞬間瞬間でそのゆらぎの有り様は千差万別です。この多様に変化する「ゆらぎ」を伴う発想が生鮮品としてのアイデアなのではないかと私は考えています。データ加工が仕事の大半を占める時代にあっても、この生鮮品の鮮度を極力落とすことなく(極力ゆらぎを排除せずに)捌くスキルを私たちは常に意識し持ち続けていたいと考えています。そして更にその考えを次世代に継承してゆく責務も感じています。なぜならば加工品でお腹を満たすことは出来ても精神は満たしきれないこともある、その事実を無視することは出来ないからです。

D/Dなる過去の情報、その海に溺れるかの如く生きるのではなく、逆に敢えてそれらを遠ざけ過少な状態におくことで何らかの気配が満ちてくる、想像が奥行きを持ち始めそして奇跡とも思えるような現象を引き寄せる。イシグロ・カズオが『クララとお日さま』でAI ロボットにその営みを委ねたのはD/Dを妄信する人類に対して、尊ぶべきもの、進むべき方向の再考を促すためのように私には感じられました。

「ゆらぎ」は生命が輝きを放つための源泉であると考える人間はもはや少数派なのでしょうか。特にデジタル・ネイティブにとってはゆらぎの中に正の価値を見出すのは中々に困難なのかもしれません。だとすれば映像が担っている「忘れてはいけないこと、それを忘れさせない」役割はこの先ますます重要度を増してくるように感じます。

蛇足ですが、コンピュータ・ネットワーク内のみならず日常の一挙手一投足がビッグ・データに取り込まれる可能性のある現代を生きる我々は、そのデータが未来の人々に小さくない影響力を持ち始めていることを自覚し、自己中心的な、もっと言えば人間中心的な価値観から脱却する必要に迫られています。SDG’sやESGなどの加速度を増した動きはそれを物語っているように思われます。だからこそ、そんな状況が息苦しいと感じた時は生身の人間との接触機会を増やしたり「ゆらぎ」をたっぷりと含んだ文学や映像に触れるのが宜しいのではないでしょうか。

自身の中に湧き上がる、或いは他者の感情に垣間見える「ゆらぎ」を余すことなく味わいながらこの一年走を完走したいと、そんなふうに考えているこの年頭です。



2022年1月1日 代表取締役 伊藤雅人