FILM DIARY 2021. April

Text by 二井 梓緒

暇さえあれば映画が見たいスプーン二年生による、
映画評論ブログ#2です。
よろしければお付き合いください。
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『⽉は上りぬ』(1955)
つい5年ほど前までは、⼩津安⼆郎、溝⼝健⼆、成瀬⺒喜男などの⽇本の映画史を代表する監督の映画はレンタルビデオ屋などにいかなければ⾒ることができなかったが、ここ1〜2年で急速に様々なネット配信サービスで配信されるようになった気がする。
前にあげた⽇本の映画史を代表する監督たちの多くの映画に出演し、素晴らしい演技をし続けた⽥中絹代はいくつかの映画を⾃⾝で監督していることを先⽇知った。
というのも、Amazon プライムで配信がスタートされた『⽉は上りぬ』もそのひとつなのである(また、 『乳房よ永遠なれ』(1955)も素晴らしい)。
普段⼥優として⾒ている⽥中絹代の頭の中を覗けるような気がしてそれだけでもうれしいが、
作品のキレの良さに思わず感動してしまう。

舞台は奈良、疎開後に住み続けていたある⼀家には、未亡⼈の姉、未婚の次⼥、そして東京に⾏きたくて仕⽅がない三⼥が両親とお⼿伝いとともに暮らしていた。未婚の次⼥を思って、三⼥は恋⼈とともに彼⼥の恋が成就するよう様々な策略を練る。念願かなってか、次⼥は恋⼈と結ばれ、上京していく。たちまち三⼥は⾃⾝も東京に⾏きたかったのに!と恋⼈にせがんだりするとてもとても可愛いラブコメディであるが、⼩津安⼆郎脚本なこともあって物語はとてもやさしく、意地悪な⼈は誰⼀⼈として出てこない。⼩津の監督作品としてではなく、脚本作品として⾒ることができるのも本作の楽しいところである。
物語は⾔わずもがなこの作品の素晴らしいところは、ある夜明けに三⼥の計らいで、次⼥とその思い⼈を公園で引き合わせるシーンである。まだ、今のような⾼品質の照明機材などがなかった時代に、ここまで美しく⼈の表情を照らすことができるのかと、感動してしまうのである。
50年代といえば、多くの映画監督が⽇本の寺や仏像を映すことが多い。
それに倣ってか、⽥中絹代もまた美しい奈良の情景をラストに映し出す。
あっという間の100分である。
映画に限らずCMも「映像」のひとつで、広告に紐付けされているからといって監督の⾊が消えることはない。⽇本の古典的映画を⾒て感動するようにテレビ広告初期の優れたCMを⾒て感動することももちろんあるだろう。どんな媒体であれ初期の作品から学べることはたくさんある。
⽇本の巨匠たちの映画が続々と配信されることは、若い世代にとって、そして映像に関わるものにとっては(もちろん公開当時に⾒ていた⼈にとっても)喜ばしいことである。⾊あせることのない瑞々しさを年代を超えて体験できることは本当に素晴らしいことだと思う。式⾊映画などの懸念もあるが、こうして古き⽇本を⾝近に感じることができる配信サービスはこれからの希望であるはずだ。



⼤学院ではアッバス・キアロスタミの研究をしていました。たまに批評誌サイトに寄稿したりしています。 ⾒た映画のなかから考えたことなどをこれから少しずつ書いていこうと思います。

⼆井